1.松根油があった頃
太平洋戦争末期,航空機用ガソリンの欠乏に直面した日本は,一大国家プロジェクトとして石油の代替燃料生産を検討していた.石炭液化や松根油計画はその代表的なものである.松根油計画というのはその名称のとおり,松の根から航空機用のガソリンを取り出す計画である.
松の根からガソリンを取り出すという発想そのものが現代の人々には理解しがたいことかもしれない.しかし日本の軍部は真剣にこの問題に取り組んだのである.「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」というスローガンが全国津々浦々に響いた.
当時多くの人々が従事したのは松の根を掘り起こす作業だった.若い労働力が戦地にとられた当時は,女性や学徒,高齢者などがこの作業を分担した.現在のような機械堀りなどは望むべくもなく,鍬やスコップなどを用いた手堀りで,半日かけてようやく一つの松の根を掘り起こすということもあったようである.
戦時中松根油生産の一翼を担った人でも松根油計画の全体像を知る人は少ない.私たち「徳山空襲のビデオをつくる会」(兼重寛代表)のメンバーが,市民運動として松根油の問題と取り組むようになったのは,アメリカの戦略爆撃調査団が残した映像資料の中に松根油生産に関するカラー映像がかなりまとまった形で見つかったからである.
もちろんこの映像は以前に別の団体などによって使われていてドキュメンタリー番組などで紹介されていた.ただ映像に出てくる松根油工場がどこにあったのか,映像の中に出てくる黒い油のようなもので本当に飛行機が飛ばせるのか,なぜ戦争が終わった後も松根油の生産が行われていたのか,というような基本的な問題に対して未解明のまま使用されていた.
私たちの活動はま
ず,戦略爆撃調査団の映像資料に出てくる松根油工場の場所を特定することから始まった.写真は,映像資料の最初に登場するシーンで2頭の馬が,荷台に松の根を満載して田舎の道を進むところから始まる.写真の左上に松根油工場の近くで川が二股になっている部分がこの場所を特定する大きな手掛かりだった.
この場所を見つけだしたのは熊毛町に住む長光智男さんで,熊毛郡熊毛町大河内(おおかわち)であることが明らかになった.右の写真は同じ場所の現在の様子である.大規模林道の開通によって様変わりしているが,川の二股の部分はほとんど形を留めている.馬車が通っている道路と平行に走る川が笠野川,これに直交して流れ込んでいる川が遠見川である.
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