ノルデン爆撃照準器と爆撃航程

B-29が日本本土の目標を空襲する場合,爆撃手は「目視で爆撃する」ことを基本にしていた.工場などを目標にした昼間精密爆撃に限らず,夜間の焼夷弾による市街地の空襲の際も,目視爆撃が不可能な場合のみレーダーを使用することになっていた.XXI爆撃機集団・るいは第20航空軍の作戦任務報告書の集約統計表にある「爆撃航程」の表には,爆撃航程が目視で行われたのか,レーダーによって行われたのかという統計が必ず登場する.

 ここでいう目視爆撃とは「爆撃航程中にノルデン爆撃照準器越しに目標を視認して投弾する」ことを意味する.この目視爆撃の方法を理解することは,多くの日本空襲を理解する上でも役立つ.
 ノルデン爆撃照準器の開発は第1次世界大戦時に始まる.当初は海軍の航空機から船舶を攻撃するために開発され,ニューヨークのC.L.ノルデン社が開発を一手に担った.開発者のカール・ノルデンの名前を冠したこの会社は,ノルデン爆撃照準器の設計,開発のためだけに設立されたといわれている.

 海軍のために開発されたこの爆撃照準器に陸軍航空隊(Army Air Corps)が注目したのは1932年の早い時期だとされている.1932年の3月には陸軍航空隊から25基のノルデン爆撃照準器が注文され,1933年4月に納入された.陸軍航空隊での試験を経てノルデン爆撃照準器の性能の良さは陸軍内部でも広く知られるようになった.

 ノルデン爆撃照準器の需要が高まるにつれ,機密保持のために設計や製作を一つの会社に委ね,海軍を通してのみ調達できるという状態は,陸軍航空隊にとって深刻な問題となった.1936年になると200基以上の注文に対してわずかにその半数の100基だけしか調達できないというような状況もでてきた.何とか海軍を経由せずにノルデン社との直接交渉で調達できないか,あるいは陸軍管理下の工場で生産できないかなど,海軍と陸軍航空隊の確執が続いた.海軍の承認のもと,陸軍航空軍(Army Air Force)に対してノルデン爆撃照準器の直接生産の許可がおりたのは1942年7月のことであった.ヴィクター社(Victor Adding Machine Company)が設立され,1943年には本格的な生産を行うようになった.

 ノルデン爆撃照準器の秘密性を語る逸話がいくつか残されている.どの国でも爆撃手は実戦に参加する前に爆撃手としての基礎的な訓練を受ける.太平洋戦争中の米国の場合,爆撃手の候補生は12週間から18週間の基礎訓練を受けた.爆撃手候補生はノルデン爆撃照準器と対面する前に,ノルデン爆撃照準器の秘密を守ることを誓う宣誓の儀式が行われた.

 ドゥリトル(Doolittle)空襲は,太平洋戦争開戦の翌年の1942年4月に首都東京などを襲って日本人を驚かせた.このときB-25には通常ノルデン爆撃照準器が搭載されたが,実際の空襲では取り外され旧来の爆撃照準器が使用された.これはもちろんノルデン爆撃照準器の使用が,ドゥリトルが意図したような低空からの投弾に適していなかったという理由もあった.「陸軍航空軍史」(第1巻)によれば,もう一つの大きな理由は日本側に捕獲された場合にノルデン爆撃照準器の秘密が敵に渡るのを防止するいうものであったという.

 また爆撃手は,自身の機から不時の脱出をする可能性が生じた場合,ノルデン爆撃照準器を破壊して照準器の秘密が敵の手に渡るのを防ぐ義務があった.
 
ノルデン爆撃照準器の原理と役割
 ノルデン爆撃照準器の役割を一言でいえばそれは投弾のタイミングを決定することにあった.そのためには,爆弾を放した瞬間から着弾に至る過程で弾道に影響を与えるすべての要素を考慮し,それを計算の中に取り込んで,機器をセットする必要があった.
 爆弾を投下すると,水平方向には機体と同じ速度で,鉛直方向には初速0で自由落下を始める.もし爆弾が高校の教科書で習うような簡単な物理学の法則に従うならば,爆弾が目標に達したとき,爆撃機は目標の真上にいることになる.しかし,実際には,爆撃機は投下時と同じ速度で飛行できても,機体から放された爆弾は空気の抵抗などを受けて減速する.このため,着弾時には爆撃機は目標を通り過ぎていることになり,この通り過ぎた水平方向の距離は追尾距離(trail)と呼ばれる.この追尾距離は爆弾の種類や飛行高度によって異なる.爆撃機が着弾までに飛行した全長からこの追尾距離を差し引いた距離が爆弾が水平方向に進む距離で,鉛直方向には飛行高度だけ落下するから,投弾角度を正確に計算することが必要となる.爆撃手の役割は偏流(drift)なども考慮して機を目標に向け投弾角に達したときに,爆弾を機体から解放することにあった.
 
ノルデン爆撃照準器の構造と原理
 先に示した投弾原理からも明らかなように,投弾前は爆撃機の機体を水平に保つことが必要になる.このため,投弾機が水平飛行をするとともに,機体の揺れなどに対しても機体に固定された照準器を水平に保つ必要があった.ノルデン爆撃照準器を写真(未着)に示した.

 ノルデン爆撃照準器は,大別して二つの部分からなっていた.一つは下部の安定盤で,この部分は機体に固定されていた.安定盤の上には方向指示クラッチがあって,これは飛行コースを一定に保つ役割を果たした.いま一つは可動の照準部である.爆撃航程のときに爆撃手がのぞき込む望遠鏡のアイピースは爆撃手の視力に合わせて設計されていてメガネを使用する必要がなかった.

 
 ノルデン爆撃照準器の特徴の一つにジャイロスコープの使用がある.ジャイロスコープは,横揺れ,縦揺れを防ぎ爆撃機の動きや姿勢と無関係に,ノルデン爆撃照準器内の工学系を安定に保つ役割を果たした.この場合のジャイロというのは回転する円盤,一種のコマで,回転している円盤は外から力を受けない限り回転軸の向きを一定に保つことを利用したものである.

 ノルデン爆撃照準器は「機械式アナログコンピュータ」(mechanical analog computer)と形容される.爆撃手は爆弾の種類や投弾高度,投弾角度,偏流など弾道に与える要因をプログラムの中に取り込み照準器にセットして,トリガースイッチをセットすれば照準器が自動的に投弾するような仕組みになっていた.すなわち,投弾のタイミングを爆撃手がとる必要はなかったのである.
 
 
爆撃航程
 B-29は指定された航路を経て目標に接近し攻撃始点(IP: initial point)に達する.日本空襲のどの攻撃始点も,小さな島や半島の突端,湾内の屈曲部などレーダーで識別しやすい点が選ばれた.これはマリアナ諸島を基地にしていた通常の航空団(第315航空団を除く)のB-29が使用したAPQ-13というレーダーが,海と陸地を区別して海岸線を描き出すのに優れた能力をもっていたためである.
 攻撃始点から目標上空での投弾までの航程が爆撃航程(bombing run)と呼ばれる.この区間は指定された高度で水平飛行をするわけだから,地上からの対空砲火にさらされやすい区間でもあり,風向などの重要な要因の他に,事前に報告された火砲の位置なども考慮して決定された.

 昼間の空襲,夜間の空襲にかかわらず,目標がノルデン爆撃照準器越しに視認できる場合は高い投弾精度が期待できる目視爆撃が採用された.爆撃航程に入ると,パイロットに代わって爆撃手が飛行の主導権を握った.爆撃手は,出発前の説明に基づいて飛行航路を目標に向けてとるようにインターホンを通じてパイロットに指示した.爆撃航程に入るとパイロットは自動操縦のスイッチを上げて,操縦を爆撃手に委ねた.爆撃航程でのパイロットの役割は主に飛行高度を一定に保ち,目標に向けて一定の速度で飛行することであった.爆撃手とパイロットの完全な協力によって行われるこの爆撃は同期爆撃(synchronous bombing)と呼ばれた.爆撃手はジャイロスコープのロックを解除する.

 一方,目標がノルデン爆撃照準器越しに視認できない場合はレーダーに頼った.通常の航空団が使用したレーダーAPQ-13のレーダー・スクリーンはノルデン爆撃照準器と電気的に同期していなかった.このため航法士がレーダー・スクリーンを見ながら飛行コースについて爆撃手に指示を与える必要があった.爆撃手は航法士の指示に従って飛行コースを調整し,ノルデン爆撃照準器を操作した.この場合も飛行高度と飛行速度の維持はパイロットの役割だった.爆撃手,パイロット,航法士の3者の協力によるこうした爆撃はレーダー同期爆撃(synchronous radar bombing)と呼ばれた.この方法ではレーダー・スクリーンの解像度の制限などにより,目視爆撃による場合に比べて投弾精度は落ちた.

 太平洋戦争の末期,1945年6月にグアムに移駐してきた第315航空団はイーグル(APQ-7)と呼ばれるレーダーを装備していた.このイーグル・レーダーは,ノルデン爆撃照準器と電気的に同期しており,飛行コースの情報は自動操縦装置を使ってパイロットにも伝えられた.これによりパイロットは,飛行高度,飛行速度,飛行コースと爆撃に必要な3条件をすべて制御できた.

(「空襲通信」第4号から抜粋)