関門トンネルの爆破計画

関門鉄道トンネルは当時世界で初めての海底トンネルで,下り線が1942年に,上り線が1944年に竣工した.関門トンネルの爆破計画については,『陸軍航空軍史』に簡単な記載がある. 『米軍資料・北九州の空襲』の出版で,関門地区の空襲を調べた機会にこの関門トンネルの爆破計画について少し詳しく調べてみた.

 アラバマ州マクルウェル基地歴史資料室(AFHRA)には,統合目標グループが関門トンネル攻撃を計画した資料が保存されている.これらの資料の中には,米側が開戦前に入手した関門トンネルの候補区間の図面も残されている.この図面は,計画段階のかなり初期のもので,弟子待-小森江線のほかに,田ノ首-新町線,それに橋梁案が示されている.実際は国防上の理由から橋梁案が廃棄され,さらに残りの2線を検討した結果,弟子待-小森江線が採用された.弟子待-小森江線についてさらに隣接する3案が検討され,結局現在の位置に落ち着いた.いずれにしても米軍は,当時,最終的にどの路線が採用されたかについては承知していなかった.歴史資料室に保存されている関門トンネルの位置を推定した解説入り写真には元の写真が1945年3月31日に第3写真偵察戦隊の写真偵察機により撮影されたことを示す焼き込みがある.おそらくこの日に撮影した写真によって関門トンネルを発見したのだろう.

 第3写真偵察戦隊のこの日の「戦闘任務」(Combat Mission)によれば,写真偵察機F-13は,関門海峡や九州の飛行場など北九州地域を中心に多くの写真を撮影した.大村や大牟田ではもやのために撮影が困難だったが,北九州地域では「100%の写真撮影」ができた.この日はよほどの晴天だったらしく,XXI爆撃機集団のリト・モザイク(照準点参照用集成図)の八幡地域などにもこの日撮影した写真が使用されている.

 「戦闘任務」には,地図作成などに使用するトライメトロゴンカメラK17や真下を撮影するためのK18の他にK22カメラ2台を使用したことが記されている.このK22カメラセットを使用すると目標を立体視し相対的な高さ(比高)を測定できるようになっていた.米軍が下関市彦島の模型(写真-3)を製作していたことは以前からよく知られていたが,実はこの模型は関門トンネルの模型だった.

 この関門トンネルの写真撮影から1週間後の4月7日付けのアーノルドから極東航空軍の司令官ケニー(George Kenney)宛ての電文には,さっそく関門トンネルに関する報告が登場する.そこでは関門トンネルを「日本における最も重要な単一の輸送目標」と位置づけ,海上輸送がますます困難になる中で,九州と本州間の軍隊の移動や物資輸送の手段として関門トンネルの役割がますます重要になっていると分析している.そしておそらくは3月31日の偵察写真の解析から,トンネルの位置や形状,長さなどの詳細な情報を与えている.さらに,門司側のトンネルの入口の切盛土部分が脆弱で,弾頭および弾尾に10分の1秒の遅発信管をつけた2000の高性能爆弾の使用を薦めている.また,下関側の彦島と下関駅の間にある鉄橋も攻撃目標として挙げている点が注目される.

 統合目標グループが作成した5月16日付けの文書「関門トンネルと隣接する目標-攻撃に必要な兵器と兵力」では,関門トンネルの脆弱な部分として,(1)門司側のトンネル入口の埋め立て部分,(2)海底部分,(3)関門トンネルの下関側にある彦島と本土を結ぶ橋梁,の3箇所を挙げ,これらを空から攻撃する際の爆弾の種類と爆弾量を見積もっている.

 さらに,統合目標グループが作成した5月28日付けの文書では,4月27日に作成された関門トンネルに関する分析を,関門トンネル建設に携わった日本人捕虜からの情報で補強したことが述べられている.ここでは,関門トンネル海底部の破壊の可能性が,以前に信じられていたよりもかなり高くなったという指摘が注目される.

 こうした分析に基づいて1945年7月31日には,第7航空軍の2群団と第5航空団の1群団に対して下関側のトンネルの入口と橋梁を攻撃する野戦命令が出たが,攻撃機は天候に妨げられて第2目標を攻撃した.

 8月5日のアーノルド発の電文には,関門トンネルの爆破計画が具体的に述べられている.関門トンネルを破壊するために,5月に統合目標グループが検討した方法とはまったく別の方法が採用された.4隻の日本船に偽装した航空機救助艇4隻が,それぞれ25トンずつ,合計100トンの高性能爆薬を積み,響灘から侵入する.途中までは有人で操縦するが,最後はリモートコントロールで関門トンネルの上部まで操作し自爆させて関門トンネルを爆破する計画だった.偽装船は最大100の彼方から操作でき,作戦を援護するために関門地域に激しい爆撃を加えるという計画だった.実際には極東航空軍が準備をしている間に戦争が終結し関門トンネルは破壊されることなく残った.

(『空襲通信』第5号,「戦争末期の鉄道輸送に対する攻撃と関門トンネルの爆破計画」より抜粋)